1959-12-11 第33回国会 参議院 外務委員会 第16号
それからもう一つ、官報で一九四三年十二月八日フランス国民委員会の、まあ委員長でございますか、それの宣言、これも正式にございます。大体その点であろうかと思います。
それからもう一つ、官報で一九四三年十二月八日フランス国民委員会の、まあ委員長でございますか、それの宣言、これも正式にございます。大体その点であろうかと思います。
しこうして、その後に四一年の九月になりまして名前をフランス国民委員会と改めております。しかし、この当時、英国のみならず、みずからもフランスの政府という地位は持っていなかったわけでございます。
○政府委員(高橋通敏君) 御指摘の点は、一九四三年の六月三日に、ドゴールとダルランが合流いたしまして、解放フランス国民委員会、すなわちアルジェ——アフリカの方とロンドンの方が合流いたしまして、解放フランス国民委員会と称したときではないかと思いますが、このときも、みずからもやはり解放フランス国民委員会、まだ委員会の時代でございまして、諸外国からも、これを政府またはそれに近い地位は与えられていない。
一方、ドゴールの方はフランス国民委員会——初め自由フランス運動と称しましたが、その後一九四一年の九月二十五日になりますとフランス国民委員会というふうに名前は変えております。しかし扱いは同じでございます。さらに翌年になりますと、このドゴールの委員会のみならず、北アフリカにもやはりダルランを主席とするドイツに反抗する団体が組織されております。